江戸の町を守る3つのすごい工夫。西郷隆盛と勝海舟の子孫。
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雑学…歴史・地理007。
江戸の町を守る3つのすごい工夫。
徳川幕府の江戸の街づくりの秘密。赤坂編。
歴史家の磯田先生と一緒に林先生たちが巡る。
江戸の町を守る3つのすごい工夫。
①「紀尾井町(きおいちょう)は、江戸を守るための町。
地名の由来。
「紀尾井町」。紀州徳川家の「紀」。尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」、3軒の家敷があったので、「紀尾井町」となった。
西からの敵を迎える重要な役割を担っていた。
赤坂は戦争になると一番の正面になるから、幕府を裏切りにくい親戚で強力な武力を持った大名の屋敷が配置された。徳川家が長く続いた要因の1つ。
2022年5月31日”林修のレッスン!今でしょ”より。
画像”かわいいフリー素材集いらすとや”より。
②石垣でわかる江戸城の真の巨大さ。
赤坂の近くに江戸時代のままの巨大な石垣がある。高さ15メートル、地下5メートルに埋められている。
江戸時代初期に作られた。作ったのは福岡藩、黒田家。
全国の大名が江戸城の工事に参加した。担当した大名の家紋が、石垣などに刻印されている。
石垣の裏側へ移動する。石垣の角は弱いので、石の積み方や形が違う。
「算木積み(さんぎづみ)」。直方体の石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む方法。1つ、1トンもある石の役割は、江戸城の防衛拠点の赤坂門のための石垣。これより先は江戸城の敷地だった。
3代将軍家光の時に、江戸城を大きくした。日本最大級の難攻不落の城。
内郭(ないかく)。将軍家の住居や、執務など。
外郭(がいかく)。大名屋敷や、防衛施設など。
外周約14キロメートル。
赤坂門。
見附(みつけ)。番兵が見張りをするところ。「赤坂見附(みつけ)」の地名の由来になった。
2022年5月31日”林修のレッスン!今でしょ”より。
③江戸っ子は外堀の水を飲み水にしていた。
外堀の弁慶堀。
城を守る以外に、江戸っ子の飲み水を貯める施設。江戸は、井戸を掘っても、塩水が出て、飲料水確保が困難。
溜池山王(ためいけさんのう)。
かつて外堀の水をせき止め、溜め池にした場所。貴重な飲み水を貯めていた。
ダムのように水を止めたことで、滝があり、蛍も飛び交う。風光明媚な観光スポットにもなっていた。
江戸の町の100万人のインフラ整備のため、土木技術が高かった。
2022年5月31日”林修のレッスン!今でしょ”より。
西郷隆盛と勝海舟の子孫
西郷隆盛。1828年から1877年。
薩摩藩出身の武士。
大久保利通(おおくぼ としみち)や木戸 孝允(きど たかよし)とともに、討幕を主導。
勝海舟と江戸城無血開城を実現。
西南戦争で死去(享年51歳)。好物はスイカ。
第一子孫の西郷寅太郎(とらたろう)。
西郷隆盛の長男。日本にソーセージを広めた。
20歳でドイツに留学。第一次世界大戦中、千葉のドイツ兵収容所の所長。捕虜1000人を管理していた。
捕虜には、自由にさせていたことがある。
1、オーケストラ合唱団。
2、ビールやワインを作って飲むこと。
3、ソーセージ作り。レシピを教えてもらい、日本全国の食肉加工業者に伝わった。
2022年1月8日”ハヤシソン”より。
画像”かわいいフリー素材集いらすとや”より。
第二子孫の西郷吉之助(きちのすけ)。虎太郎の息子。
戦前貴族院議員、戦後は参議院議員を務める。
佐藤栄作内閣では、法務大臣に就任。
第三子孫。病院の顧問。
第四子孫。西郷菊次郎(きくじろう)。
台湾では有名。13歳でアメリカに留学。24歳で、明治政府の外務省に入る。台湾に赴任し、インフラ事業を展開し、農業発展のために水害から守る堤防を作った。
1904年に京都市長になり、道路拡張、上下水道建設、第二琵琶湖疏水(そすい)を作る。
第五子孫。西郷龍太郎(りゅうたろう)。
都内IT企業に勤務。西郷隆盛が嫌いだったが、19歳の時、鹿児島市のお墓参りに行き、西郷隆盛の教えを伝える活動をすることになった。
鹿児島弁で、「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」。迷ったら決断し、実行しなさいという教え。
鹿児島の郷中(ごじゅう)教育。年長者が年少者を指導する。薩摩藩独自の教育システム。
良いと思った事は実行。諦めなかった西郷隆盛。
2022年1月8日”ハヤシソン”より。
勝海舟。1823年から1899年。
咸臨丸(かんりんまる)の艦長として、幕末、蒸気船でアメリカに渡航。日本人で初めて太平洋横断。
勝海舟は、貧しい武士の家に生まれ、西洋の学問に打ち込んだ。
1853年、ペリー来航。海防意見書が幕府の目に留まり、幕府の海軍創設に大抜擢された。
坂本龍馬の師匠。西郷隆盛と、江戸城無血開城を実現。
本妻の他に5人のお妾さんがいた。
第一子孫の逸(いつ)さん。型破りな教育ママだった。
自分の生き方を貫く精神。
男爵の目賀田種太郎(めがたたねたろう)と結婚。
夫は、アメリカのハーバード大学卒業の法律家。専修大学、東京藝術大学の創立者の1人。
逸(いつ)さんは、明治5年まで、女性の入山が禁止されていた富士山に登った。
7人の子供に恵まれ、貴族でお金持ちにあるにもかかわらず、雪の日でも子供たちの通学は徒歩。子供たちの着るものは、丈夫な木綿製。甘やかさず厳しく育てた。
「親の地位に頼ってはいけません。自分は何者でもないと思って、自分の道を見つけていきなさい」と。
第二子孫。目賀田綱美(めがたつなよし)。日本に初めてタンゴというダンスを伝えた。
国境を越えての超グローバルな感覚の持ち主。ハーレーに乗っていた。
父に付き添いパリに行ったが、タンゴに魅了され、パリに残る。パリの社交界で右に出るものがいないほどの実力者になった。
タンゴとは、19世紀後半、アルゼンチンを中心に発展したダンスのこと。
目賀田綱美(めがたつなよし)さんのパリでの呼び名は、「バロン・メガタ」。日本でのタンゴの普及に取り組んだ。
2022年1月8日”ハヤシソン”より。
画像”かわいいフリー素材集いらすとや”より。
第三子孫。梅太郎。
明治時代にアメリカ人と国際結婚。奥様は、クララ・ホイットニーさん。
幕末から明治。日本は欧米から「お雇い外国人」を呼んでいた。
ホイットニーさんは、家族で来日したものの、手違いで、商業学校の教師として約束された仕事も家もなかった。勝海舟が自宅の敷地内に家を建ててあげた。
梅太郎とクララは出会う。
クリスマスパーティーや英語教室、キリスト教の勉強会などに参加。
クララとの間に、1男5女の子供を授かったが、梅太郎は稼ぎが少なかった。クララは、離婚して、子供を連れてアメリカに帰ってしまった。1900年頃、6人の子供を抱えて大変だった。5年ぐらいは、勝家からお金を送ってもらっていた。
第四子孫。末っ子のヒルダの孫。
大学の教員。
クララが持ち帰った勝海舟の直筆の書を持っている。
大学で勝海舟や明治維新の研究に取り組んでいる。
第五子孫。
髙山みな子さん。フリーライター。
勝海舟の自宅には、お菓子部屋があった。
お客様が来る時は、手土産にお菓子を持ってくる。手土産のお菓子を保管しておく部屋。
〇〇さんの〇〇最中を持ってきなさいと言っていた。
勝海舟は、スイーツ男子で、あんぱんやカステラなどもあった。
2022年1月8日”ハヤシソン”より。
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